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『身体と「社会的なるもの」の変化』<姿勢な風景
姿勢な風景

『身体と「社会的なるもの」の変化』


石田秀実
1.
かつて身体が人々の注目を集めたときには、政治の季節が苦い形で中座した後の方向転換といった意味合いがあった。もう一度生活の根から、いずまいのありかたから、人のあり方を見直そうという姿勢が強かった。だが今、そんな空気はどこかに行ってしまった。装身具か何かのように古今東西の身体技法をいじくりまわす人がいる一方で、身体などまるでありはしないかかのように振舞ったり、過度に自分の身体を傷つけてしまう人も増えた。

ここ何十年間ほどのあいだに、私たちの身体をめぐる考え方と、それを包摂したり排除したりする「社会的なるもの」についての考え方は、どうかわってしまったのだろう。つとめて自分の身体という不思議な存在とむきあおうとしているひとがいる一方で、普通に暮らしている人のほとんどにとって、自分の身体は、いわば仕方なく自分にまとわりついてくるものだ。さまざまな欲望の中に自分というものが意識され、しかもその自分は自分が属している社会の定める正常さの範囲にいつまでもありつづけねばならない。その正常さの中には、近代社会独特の壮年の健康な身体ばかりを基準とする身体の正常さも含まれており、それを支えるために、身体という道具の手入れをしないわけにはいけない。

健康への過剰なまでの配慮も、身体そのものをいつくしむというより、社会の定める正常さというノルムに、最初から最後まで身体を合わせておこうという、ある意味ではむなしい努力の現われのようだ。その意味では、身体は自分そのものというより、自分に付随した財産か道具になっている。その延長上に身体の一部を、テクノロジーで、自分の好ましいように変えてしまおうとか、売ろうとか、人のものと置き換えようという考え方もあらわれる。

きわめて荒いいいかたをすれば、魂と、それに対する質量としての肉体という二元論的な身体観が、デカルトを経由してもまだいつまでも続いていたとして、それがフーコーの語る分割不可能な「生ける身体」というものに変わっていくのは18世紀末から19世紀のことになる。

「生ける身体」とは、これも荒っぽく言うと、魂 vs 肉体という形で二元的にとらえられた身体であるよりも、一元的な「生命」としてとらえられた身体観である。ギリシャ的なピュシスではなく、近代的で形而上的な「生命」観念の誕生と言い換えることもできよう。この身体観の誕生は、国によって時差があるとはいえ、国民皆兵的な国家の誕生とほぼ平行した出来事だといってよい。

この身体観が語る「生ける身体」としての生命は、国家によってその最低限を権利として保証され、国家に役立つよう訓育されるべき「神聖にして犯すべからざるべき生命」である。「生命の尊厳」といいかえてもよい。近代の国民国家による産業と軍事という二つの重要な領域への総動員体制が、この身体観を要請していたことは、時代に差があるにせよ、どこの近代化においても認められよう。

遅れて近代化した日本でも、こうした「生ける身体」の保障は、近代的国家体制の確立と共にその動きをはじめる。だが、それが国民皆保険に近い形で完成していくには、この国の場合も、国家総動員体制の確立と連動する形を取らねばならなかった。生命を保証されることと引き換えに、私たちはいわば自分の身体を国家に預けたのだ。

ベートーベンがフランス革命とナポレオンの英雄的民主主義と思えたものに感激してエロイカを書いていたとき、その下で従順に戦っていたフランスの兵士たちは、この「神聖にして犯さざるべき生命観」によって国家から支えられていた。そうした近代の民主主義が、実はちっとも普遍的なものではないこと、近代の民主主義とは、ある国家共同体内部の暴力を加工して非暴力化する一方で、その外に対しては総動員体制の暴力発動装置として作動するようなものであったことを、ベートーベンが、そしてやがてヨーロッパ全土が、知ることになるのは、その後のことだ。

もちろんこうした国家による生命の保証は、まずは最低限の、いってみればゾーエーとしての生の保証だった。それでもそうした保障なしには、アルチュッセル的な意味での「国民国家の主権者でありかつ従属者=臣民(Subject)である」という国民意識は、育たなかった。

資本主義の段階としては、これはマルクス―エンゲルス的な資本主義の修正としての「社会的なものの評価の始まり」になる。だから、それがたぶんに統合の過剰と画一化(ナチスの政策につながるような)をもたらすものであり、国民でない、あるいは国民としてふさわしくないとされる(健康的、あるいは擬似的であれ血縁的、民族的に)ものたちの排除を含んでいたにしても、この修正の効果そのものはある程度評価しなければならない。
またこうした評価は、人々の側がそれを要求するという点、すなわち連帯という側面からも重要だ。構造的に見れば、近代国家の総動員装置と連動するものであったにしても、それは一方で人々の切実な連帯と運動の成果でもあった。ゆがんだ恩恵的な、すなわち権利としての傾きをほとんど奪われた日本的な「福祉」でさえも、そうした連帯がなければありえなかったのだ。
2.
現在の問題は、こうした「神聖な生命」という身体観が崩壊しかけていることである。現代社会では、形而上的な生命という言葉は、道具として都合よく使われているだけで、その実質は「物質としての身体」に変えられてしまっている。「物質としての身体」という観念のもとでは、「物質としての脳」(これは無理に物質として捕らえられているだけで、その内実はアニミスム的な魂の焼き直しである)が「物質としての肉体」を支配するという形の二元論が復活している。そこでは、「特殊な物質としての脳」が、「物質としての身体」を支配するという形で、身体は「自律的なもの」だとされている。

身体は、もはや社会によって保障される「神聖なひとつの生ける身体としての生命」ではない。「物質としての脳」が自己そのものであり、それによって「物質としての肉体」を自律し使役する責任は、社会ではなく、自己すなわち脳にある。身体の自己責任論である。

産業的にも軍事的にも、もはや国家が、国民すべてを総動員体制の形で必要としなくなっているという問題が、その背後にはある。アメリカが軍を差し向ける相手に象徴化されているように、必要としないものには、資本主義は金をはらおうとしない。その結果、身体は国家が訓育保護する対象というより、自己=脳によって自律的に運用されるべきものとなった。労働力とは自己管理すべき財としての身体の運用のことであり、そこでは「神聖な生命」ではなく、市場にさらされるべき財として、身体が位置づけられている。

こうした事情は、今の障害者自立支援法国会の中で、正直な日本国の厚生労働大臣が「福祉とは金で買うもの」といったことを思い出せば明白になるだろう。金で買う福祉ならば、もはや社会が保障する基本的人権や神聖な生命としてのそれではなく、資本主義的な財の一種に過ぎない。

ほかならぬ生命倫理という分野で、身体生命の尊厳という言葉が、都合のよい道具でしかなくなって、いわば前世紀の遺物であるかのように語られだしたのは、その故である。「人の生命は平等ではない。そこには格差と差異がある」とP.シンガーらが語るとき、彼らは、かつては画一的に神聖視されていた生命というものを、たとえば脳という特異な物質によって自律されている身体と、もはやゾーエーのみとみなしてよい身体とに、差異付けしている。とりわけ自己管理・自己決定できなくなった身体(能力がない=脳が正常でなかったり、端的にその機能が失われたりした身体)は、単なる物質そのものとして扱ってよいと彼らは語る。

3.
こうした身体観の変動は、後期近代における国民国家の変動と連動している。産業と軍事両面で、国民すべての訓育を必要とし、そのために最低限の生を権利として保証する基本的思考の上に、多様な「社会的なもの」を積み上げてきたのが近代の国民国家だとしよう。そこでは、他方でナチスに典型的なように、健康は義務化され、優生医学が血の上であるいは正常性というノルムの上で、領土線という「大地のノモス」(K.シュミット)が領域的に、国民とはいえない人々を排除する。

それに対して現代、すなわち後期近代の国家は、脱領土化し、もはや大地のノモス内にある国民全員の訓育や生命の保証を必要としていない。したがってそこではゾーエーとしての生命を、権利として保証するという考え方そのものが、時代遅れになってきているのだ。もはや「形而上的な生命の神聖さ」や「生命の尊厳」は、道具として都合よく用いられるだけで、実質的には無用の長物なのである。

「権利としての社会的なるもの」という考え方が、この社会から次第に消えて、代わりに恩恵としてのWelfare to work(資源再配分ではなく生存競争に参加させる形の福祉―実質的には最低以下の生活か棄民になるかを選ばせる結果になる)のような思考が重みを増してくる理由は、ここにある。権利としての社会的なるものではなく、恩恵としての(あるいは慰撫としての)それならば、権力の考えしだいでいつでもやめられるからだ。また、社会的なものが権利ではなく恩恵なのであれば、それを与えてもいつまでも自律できないものは、切り捨ててもよいことになる。権利である時代なら、むしろ逆に「がんばっても自律できないものがいることを前提に」社会的なるものが考えられていたのだが。

他方で、ナチスにあったような「義務としての健康」という思考は、「社会的なるもの」でそうであったような社会権や生存権の条件としてではなく、いまや財となった身体の選別装置として残る。表面上は禁煙のマナーをとく紳士的法律のようにみえるが、制定されたばかりの日本の健康促進法は、まさにこうした趣旨によって作られている。健康が義務化され、それを守れなかった人々が、自己の責任において選別されるのだ。優生学が遺伝子レベルで実践され、生命倫理の仮面をかぶった排除が、胎児やすでに生まれた子供を相手になされるのも、同じ身体財の選別装置としてである。

一方でまた、こうした選別装置は、脱領土化した国家において、領土線という大地のノモスに代わって国家を支えている文化アイデンティティとしてのナショナリズムの、働きの場そのものでもある。「神聖な生命」から「財としての身体」へという身体観の変化と、脱領土化して今までにも増して暴力的な国家であり続ける後期近代国家、そして大地のノモスに変わる文化的アイデンティティとして、人を脱領土してしまった国家に引き寄せる装置としてのナショナリズムの跋扈の三者は、不即不離の関係にあるといってよい。

そうした事態の中で、welfareないし福祉といったものは、前述のように最低限の生の保証としての生存権というありかたをやめ、変質していく。一方では生存権ではなくなったwelfare to workが、前近代的な恩恵や慰撫として登場する。他方では恩恵や慰撫ではない形の、変質した福祉ならざる「金で買う福祉」が、中産階級以上をターゲットとする「よりよい生の獲得の自由権」として登場してくる。この後者は、簡単に言えば、平等権ではなく、すでに十分ゾーエーを満たしている人々のみを対象とする、「よりよいビオスの選択の自由権」としての福祉である。

これはその名も「選択的福祉」の名の下に、その福祉を「金で買える人々」をターゲットとして営まれる福祉である。よりよい健康、よりよい介護からよりよい生命保険、そしてよりよい身体への改造や、場合によったら悪くなった身体の置換としての臓器移植や皮膚移植、そしてできうれば脳移植まで、「選択的福祉」の対象はその材料に事欠くことがない。

旧来の「社会的なるもの」との大きな違いは、それらが軒並み資本主義の新しい素材の一つであることだ。つまりそれらは、社会資本を削って「国家の構成員全員の神聖な生ける身体=生命」を保証する装置(平等権としての生存権)ではもはやないのだ。構成員の中の「支払えるもの」のみが、選択的に自由に利用できる、資本となりうる財を産み出すような装置なのである。

こうした選択的福祉という名前を持った資本主義の装置には、当然その材料としての身体が必要である。材料としての身体は、プリミティブには介護労働の場合のように、生きている生身の労働財としての身体として求められる場合もある。

だが、よりよい身体改造や身体置換の材料となれば、ある種の人々から強引に奪い取った、卵胚や遺伝子素材、そして生きている人体組織が必要となる。日本ではまだ水面下のできごとだが、さまざまな棄民や「合理的に死者とされた生きている人々」、すなわち脳死者や植物状態の人、精神障害者、不法入国者、認知症患者、尊厳死の身体などが、こうして選択的福祉の素材としてリストにあげられていく。身体の市場化である。

これは今の資本主義のあり方を支える装置でもある。アメリカや日本に典型的なように、今、経済の半分ほどは、戦争に伴う様々な体制がまわしている。そして未来の経済を回すもう半分は、もはや石油でも原子力でもなく、分析され資本化された生命という素材である。とりわけ人間の身体そのものを、資本主義の素材としてどう処理していくかに、先進国の視点は集中している。2010年に予測されている身体市場を含むバイオ市場の予想規模は、230兆円である。

「人の生命は格差があって当然のものであり、もはや平等と考えてはならない」という欧米系の生命倫理学者の言い草は、こうした土壌の上に花開いている。そこでは「生命の尊厳」概念を道具として、尊厳死させられた身体が、モノとして逆説的にも「尊厳をまったく欠く」扱いを受け、パーソン論(脳に理性の座を認め、その有無を人格であるかどうかの基準にしようとする議論)によって人間としての尊厳性を奪われた、精神障害者や非理性者が、ナチスよろしくモノとして処理される可能性が開かれようとしている。
水牛のように(2006年4月号) より
 
 



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